1970年の大阪万博で、多くの来場者を魅了したパビリオン群はどうなったのか? 有名な「太陽の塔」も、テーマ館というパビリオンの一部だった。大半のパビリオンは閉幕後に取り壊されたが、個人の家や海外に移築されたものもある。
日本国際博覧会協会によると、大阪万博では86の国際館と企業館のうち、28のパビリオンが移築された。
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パビリオンを追跡調査している大阪公立大学の橋爪紳也特別教授(建築史学)は「建物全体が現存するパビリオンは六つ」と話す。鉄鋼館、大阪日本民芸館、カンボジア館、ミュンヘン市館、ラオス館、サンヨー館だ。
神戸市北区の「広陵町自治会館集会所」はかつて、カンボジア館だった。
住宅会社が「宅地造成のシンボル」として移築、92年に地域に寄贈された。近所の人たちが集う場所として愛され、今でも「パビリオン」と呼ばれる。
自治会長の田中収さん(76)は「パビリオンは地域の誇り」という。老朽化から2017年に改修した際も、住民から取り壊しを求める言葉は出なかったという。「これまで落書きされたこともない。大事に大事に使ってきた」
毎年11月に集会所で開く「文化祭」にはカンボジアの留学生や領事館関係者も訪れる。
広陵児童館の館長でもある田中さんは願う。「さらに50年経っても使われていてほしい。子どもたちのふるさとの風景に、パビリオンがあってほしい」
駐屯地の憩いの場、平和願う寺の本堂
ドイツの都市であるミュンヘ…